◆流作場五差路から万代中央近辺
2007年4月1日、日本海側で初の政令指定都市となった新潟市。その表玄関は通 称万代口というが、 嘗てその一帯は萱や葦の生えている荒涼とした信濃川右岸の小さな嶋島嶼であった。 開拓以来生業として畑、田圃を耕すと共に信濃川で鮭、鱒や鮒、イトヨ等の川漁で生計を立てる半農半漁鵜の村であった。 また島に自生する萱、岸辺 に寄り付く土を屋根材や壁材などとして売り大きな収入源としていた。 戸数40戸ほどの人口500人余りの寒村であった。 然し殆どの物を自給自足できた。 現在の新潟 駅の発展した姿をみると想像だにできない。 この地区一帯を地元の人たちはかつて「流作場」と言ったが、今その名前が残っているのは、 「流作場五差路」現在の中央区東大通交差点と中央区水島にある市立「流作場保育園」くらいです。
■ 附寄島と越後長岡藩
流作場は、江戸時代の寛文、延宝の頃より信濃川の中洲にできた大小無数の島嶼が長い年月を経て寄り付いて大きな島を形成した。 以来新潟町と沼垂町とでその帰属を争ったが幕府評定所の採決により、当時親藩大名であった長岡藩の領する新潟町のものとなった。 [元禄12年4月26日、湊及び島嶼の支配権を長岡藩が得る]。 当時この島嶼は、附寄島、または新潟島から見て向島と呼ばれていた。 島に住む者無く、川風 に葦の穂がなびき新潟町の漁師が網を干したりしている場所にしていたという。 鮭や 鱒を獲る時には漁場として活用していました。
■ 安倍玄的、外 4名の附寄島新田開発
やがて長岡藩六代目牧野駿河守忠敬に より、延享3年8月(1746)安倍玄的、近江屋曾平、寺山幸助、中倉源兵衛、関 川助市の五名に 2750両を上納せしめて開墾を命じた。安倍玄的が一人これに 専従して寛延元年(延享5年改元して1748年)一応の開発の体裁を整えた。 この時の申付け書に「右は此度新潟向島流作場新田開発に就き申し付け候云々」とある。 然し、この時点では流作場の名前は正式な名前ではなかった江戸中期に於いて堤外地などの水損地で一定の収穫高をみることが出来ない 土地を公的に流作場、又は流作田と言い、この様な呼び方で規定されていた。附寄島が正式な呼び名であった。 長岡領越後国蒲原郡附寄島新田となった。 また、開拓者の名に因み、通称「玄的、玄的村、玄的新田」という。今でもこの地域を玄的という人もまだいる。
■ 流作場という地名の最初
天保14年(1843)6月11日幕府の命令により新潟浜村(新潟町)の上地を行った。 上地とは幕府に領地を返上することである。これに続いて天保15年、改元して弘化元年(1844)に附寄島も上地が命じられ、 弘化2年4月4日上地された。弘化3年(1846)上地後の村名が決まった。その肩書きは新潟浜村内流作場新田と決められ天領となった。 村の名前を「附寄島」とした場合島は一定の広さと収穫高がみられるので年貢高が多くなる。 そこで村人は相談の上、一定の収穫高が見込めない水損地であることを申し願って、年貢を少なくしてもらうためにこの名前をつけたと言い伝えられています。 またそのような田んぼを「流作田」といいます。
(文章:田所暁雄 三社神社大橋宮司さま監修済)
語る人 三社神社:大橋宮司さん
●明治40年頃の沼垂の小路と掘。地図左手の古信濃川より西側が流作場。東万代町、中天明町から沼垂西横町にぬけるところに、古信濃川があり、 当時の町並みが整然と区画されています。