◇ 流作場今昔
地図や写真で振り返る流作場今昔
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当地、流作場は延享3年(1746年)に安倍玄的(あべげんとき)様が信濃川の島嶼(とうしょ)を開拓して住家15軒にて玄的村を開くに始まりました。 1910年代からの当時の地理図や航空写真を通して、流作場の今昔を振り返ります こちらのサイトを参考に流作場地域に限って掲載しています。
現在の流作場万代地域(2023年国土地理院)
1910年(明治43年頃)代流作場万代地域(1910年国土地理院)
信越線が沼垂駅より栗ノ木川に掛かる万国橋を通り、「魔のU字カーブ」と呼ばれた大きく曲がる線路が見えます。 現在の弁天公園辺りに新潟駅が見えます。萬代島も孤立しています。地図に見える萬代橋は2代目。 萬代橋と結ばれるのは万代町通り。東大通も明石通りもありませんでした。
1930年(昭和5年頃)代流作場万代地域(1930年国土地理院)
側面に御影石(花崗岩)の化粧板を施した6つのアーチを連ねる鉄筋コンクリート橋の第3代となる現萬代橋は、 1929年(昭和4年)6月に竣工された。現在のラブラ周辺の万代もこの頃、埋め立てられた。 地図真ん中にある「高女校」は、万代高校の前身、1921年に新潟市実科高等女学校 (新潟市立高等女学校>沼垂高等学校)として設立された。
1945年(昭和20年頃)代流作場万代地域(1945年航空写真)太平洋戦争後
西港が整備され、現在の萬代島地域も埋め立てられた。あたらしい新潟駅の整備も始まったころ。 地域でも堀が埋め立てられた頃。
1961年(昭和36年)代流作場万代地域(1961年航空写真)
新潟駅が移転、明石通りや東大通が誕生する。
1964年(昭和39年)代流作場万代地域(1964年航空写真)新潟地震後
新潟地震で栗ノ木川が津波により浸水。万代地域でも液状化、萬代橋や萬代島も沈降した。
1966年(昭和41年)代流作場万代地域(1966年国土地理院)
まだこの頃は佐渡汽船は対岸の下大川前通よりでているが、後に移転する。
1974年(昭和49年)代流作場万代地域(1974年航空写真)地震後10年
津波を経験した栗ノ木川沿線住民の要望により、栗ノ木川埋め立てが決定、1968年(昭和43年)に着工し、 南側から順次供用を開始。1975年(昭和50年)の万国橋交差点 ~ 笹越橋交差点間開通により 全線が栗の木バイパスとして開通した。萬代橋脇にキャバレー「香港」の円形の劇場が見える。
1980年(昭和55年)代流作場万代地域(1980年国土地理院)
萬代島に翌年、佐渡汽船が対岸から移転した。
1997年(平成9年)代流作場万代地域(1997年国土地理院)
万代島に朱鷺メッセを含む複合施設構想が立ち上がった。柳都大橋も開通している。宮浦中学校も建替が終わり 現在の様な校舎配置となった。
2021年代流作場万代地域(2021年航空写真)
・・・・・And history is spun.