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◇ 宮城震災遺構を訪ねる

◆震災遺構「荒浜小学校」(R05.05.28)

 新潟市万代長嶺小学校校区民児協では、5月末に一泊研修として宮城県の震災遺構「荒浜小学校」を訪ね、震災後の在り方について勉強会を行いました。 筆者はここは三回目です。
 最初は2011年の東日本震災後の震災ボランティアとして。あの頃はまだ瓦礫がごろごろしていて、高速もまともではなかったため行くまでにかなり時間を要していました。
 2回目はその三年後、2014年に本業の研修会が宮城であったため、震災の勉強会として訪れました。 その頃には瓦礫はほぼ撤去されていましたが、周りの田んぼは潮かぶっていたため耕作できず、荒れ果てていました。
 そして2016年、廃校になった後、「震災遺構」として活用されることになりました。周りの田んぼは青々としていてかつて耕作放棄地だったとは、その面影はありません。

👉 宮城県 震災遺構「荒浜小学校」


写真上段左:廃校記念 「ありがとう荒浜小学校」
写真上・下段中:津波を最もまともに受けた校舎東側
写真上段右:一階保健室。瓦礫は片付けられたがかつてはここに自動車が津波によって流されて上窓まで瓦礫であふれていた。
写真下段左:体育館の時計。津波に襲われた時間で止まっている。
写真下段右:校舎南側。1・2階は津波の被害を受けた。

 現在震災遺構で一般公開しているのは1階の現状、壁面や黒板が湾曲し、天井まで破損、被災直後の写真などから、 津波の威力の大きさや流れ込んだ大量のがれきの様子を知ることができます。
 2階の床上40cmに残る津波の水跡や、天井にまで達した津波のしぶき跡を見ることができます。
 4階では荒浜地区の歴史と文化を紹介、廊下西側の突きあたりに津波到達時刻である15時55分で針を止めた体育館の時計(写真下段左)が展示されています。 展示室「3.11荒浜の記憶」では関係者の証言や当時の記録をもとに、地震発生から避難、津波の襲来、そして救助されるまでの活動を振り返ります。 地震発生時から、避難者全員の救出までを、当時の校長や町内会長などへのインタビュー、消防ヘリの映像などを交えまとめた約17分の映像 「3.11荒浜小学校の27時間」を繰り返し上映しています。
 3階は事務管理棟なので見学はできませんが、北側校舎エレベーター施設があり、屋上には上がれます

▶ Youtube 宮城県 震災遺構「荒浜小学校」

 見学当日は日曜日だったこともありますが、外国人を含む多くの方が見学に来られていました。

◆南三陸の語り部(R05.05.29)


👉 南三陸の語り部バス~南三陸ホテル観洋


 2日目、南三陸の語り部バスで語り部の方々から当時の様子、避難場所とは等々、生々しい様子が語られました。

 奥州藤原氏ゆかりの南三陸町は、宮城県北東部の三陸海岸南部に位置する本吉郡に属する唯一の自治体です。旧志津川町と旧歌津が合併して現在名に変わりました。 沿岸部一帯は三陸復興国立公園の指定されています。 リアス式海岸の地形的な特性から津波の影響を受けやすく、近世以前においては平安前期の貞観地震(869年)に伴う大津波など、 近代以降では、1896年(明治29年)の明治三陸大津波、1933年(昭和8年)の昭和三陸大津波、1960年(昭和35年)のチリ地震に由来する津波によって大きな被害を受けています。 2011年(平成23年)、東北地方太平洋沖を震源とする地震によって被災し(東日本大震災)、特に大津波による被害は甚大となりました。

写真上段左:今回我々を案内してくれるホテル観洋の米倉氏
写真上段中:戸倉公民館(旧戸倉中学校)
写真上段右:旧戸倉中学校体育館
写真中段左:旧戸倉中学校の時計。地震後の停電によって止まってしまった。
写真中段中:旧戸倉小学校の生徒達が避難した小山。中程に神社があり鳥居が見える。津波は鳥居付近にまで達したという。
写真中段右:震災遺構「旧高野会館」
写真下段左:高野会館の浸水域(4階付近)
写真下段中:高野会館の1階
写真下段左:南三陸町 震災遺構「防災対策庁舎」。赤い鉄骨がむき出しになっている。

 まず最初に旧戸倉小学校の避難について語られます。旧戸倉小学校では消防や行政が安全とした屋上避難が続けられてきましたが、あるとき地元出身の女性教師が、古老より伝えられていた 地震の後の津波の様子から屋上避難では足りない、もっと高い場所をと有志を募り調査、近所の神社があるお山に避難場所を設定する様、学校側に直訴、 それが認められ、ある時からそのお山を避難場所にして訓練をしていたそうです。その後、実際に津波が襲ってくると学校はそのまま飲み込まれ、神社の鳥居付近にまで達したといいます。

 次に訪れたのは旧戸倉中学校。現在は戸倉公民館として機能しています。地震時、当初は別棟の体育館に避難しましたが、ある教師がここより学舎の2階の方が高い、あちらに避難してはと提案。 それが認められ全員避難を終えた頃、津波は体育館を丸呑みし、学舎の1階は水浸しになり、事なきを得たと言います。実際、中学校の学舎は20mほどの高台にあっても、 1階を飲み込むほどの高さまで津波に襲われたのですから、今までの見識の当てにならないことこの上ないことであるといえます。

 次は防災庁舎にほど近い、高野会館。当時ここでは高齢者による学芸大会が開かれており、多くの高齢者にあふれんばかりでした。当然、地震がおこってもすぐさま高い建物へ避難など できるはずもなく、みな屋上へ避難が完了した頃、津波が襲ってきました。津波は4階まで悠に達したいうことです。民間の震災遺構はここだけです。

 次に訪れたのは防災庁舎ですが、津波が襲った頃は平地でありましたが、現在は8mの防潮堤に囲まれて復興祈念公園として整備されています。 当日は結構な雨でしたので防潮堤からのぞき込む形で見学していました。

 最後は高台に避難した南三陸町の現状です。新しい区画の団地や建物が山を切り開いて建てられている様子を眺めて1時間の語り部さんとの時間は終わりました。 地元に帰ってきても色々と考えさせられる時間でした。

  文責 事務局長 武田(万代長嶺民児協)